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「生きることの信頼を取り戻す」@宮台真司ゼミ(後編)

後半、いよいよ、ワークショップのハイライトです。

立つ・歩く・回る・しゃがむ・横たわる・立ち上がるという極めてシンプルな日常的な動作を、極限の集中力と丁寧さを持って行うことにより、結果的にそれが、その人固有の踊りになっていくという稽古を行いました。

初めに僕一人が行うことになり、全員に見ていてもらう形で、僕は彼らに向かって歩き出しました。そのときです。ちょうど正面に立っていた宮台先生が、僕の動きに共鳴してしまい、歩く僕に引き寄せられるように、ただ一人真っ直ぐこちらに向かって歩き出されました。途中ではっと我に返り、元の位置に戻られましたが、そのとき、僕は宮台真司が持つ、他者や世界のエネルギーに対して、瞬発的に共鳴する力を見たように思いました。今まで何度もこのワークショップを行って来ましたが、そういった共鳴力のある体に出会うことは稀です。

そのあと、一対一のペアになってもらい、まずは、お互いの胸に耳を当て、交互に心臓の音を聞き合いました。次に、その心臓の音を忘れないようにして、そのまま数メートル離れて、真っ直ぐ向かい合い、最初に行う人は立ち、後の人は座ります。そして、それぞれが、この世界にたった二人きりのペアとして、見つめる見つめられるの関係の中で、この、立つ・歩く・回る・しゃがむ・横たわる・立ち上がるという行為を極限の丁寧さで順番に行いました。

他の人は関係ない、ただ自分の目の前にいる人に対して、自分の出来る限りの誠実さで、存在すること。ここには、性別も年齢も立場も国籍も経歴も一切関係ありません。ただ、人間と人間の命と命のやり取りがあるだけです。

限界まで掘り下げて行なわれるこのシンプルな行為は、やがて彼ら一人一人の人生の切実さとシンクロしていきます。それはまさに、ダンスが生まれる瞬間であり、感動的な時間でもありました。
そのとき、首都大学東京の209教室は、さながらエキサイティングな神話的な空間に変わりました。

全てのワークショップが終わった後、夕食を挟んでから、丁寧なフィードバックを行いました。
ここからは、舞踊批評家の竹重伸一さんにも加わっていただき、全員が、このワークショップを通じて自分が感じたこと、人の踊りを見て感じたことを、出来る限り丁寧に客観的に言語化してシェアする時間を持ちました。

最初は、ペアになったもの同士で話をしてもらうのですが、この話がどこまでも尽きることがありませんでした。本気で体を賭け合った後では、嘘の言葉は一切通用しません。しかし、体から出た本当の言葉は無尽蔵に溢れ出て来ます。これは、ワークショップの中でも一番、豊かな時間です。

最後に、全員で輪になって座り、個々人が体験したことを、みんなでシェアしていきました。

「今までの人生の中で一番生きていると感じました」
「世界でたった二人きりなのに、目を逸らされたことが悲しかった」
「自分の前に踊ってくれたパートナーが、命がけで道を作ってくれたから、自分はその道を信じて辿ることが出来た」
「自分を信じて見つめてくれている人がいる。そのことが、どれだけ踊る勇気になったか」
「初めは恐怖で苦しかったが、体と空間と真剣に向き合っていく内に、ある時から体が不思議と楽になるのを感じた」
「目の前にいるその人が、たまらなく愛おしく思えた」

参加者の一人一人が、誠実でかけがえの無い言葉を話してくれました。
それを全員が真摯に受け取っていきます。
彼らが感じた全ての言葉が正解であり、そこには不正解は一つもありません。

そして、最後に宮台先生の番になり、しばしの沈黙の後、彼は静かに話し始めました。
「今日、誠司さんのワークショップを受けて、自分がどれだけ弱く、無様な存在であるかがよく分かりました。どれだけ丁寧にしようと思っても、自分の体は思うようには動かないのです。本当に貴重な体験をさせていただきました。」

その言葉を聞いた時、宮台真司という人の本当の凄さを知ったような気がしました。
彼は、自分の積み重ねてきた一切の経歴を捨てて、僕のワークショップに参加してくれました。
未知なる何かを学ぶ為には、自分のこだわりや自尊心を捨てて、一番弱く、無垢なる状態で誠実に向かい合う必要があることを彼は深く理解していました。

実は、これは、人が美しく生きていく上で、一番大切で一番難しいことです。

宮台先生は、あえて、体を張って、そのことを自分の生徒たちに見せたのです。
それは、すなわち、自分の立場をかなぐり捨てて、一番無様な姿を生徒たちに晒すということです。

それは、「弱さ」というものが内包する「豊かさ」を、身をもって知っている人のみが出来る行為であり、「サクリファイス」が持つ、本当の意味での「強さ」と重なるところではないでしょうか。

そうか、これが教育というものなのか。こうして体を張って、いつも他者や世界と向かい合っているからこそ、彼の探究心には限りがなく、果てしなく精神と智慧が深化し続けることが出来るのではないか。

果たして僕にそれが出来るだろうか?

"学ぶ姿勢"

それは、このワークショップで僕が宮台先生から受け取った最大のものだったような気がします。

それから後は、宮台先生を中心に生徒のみなさんと、言語以前の世界について、現代におけるイニシエーションの困難さについて、近代社会における機能不全に陥った身体性について、思考の限界と超越について等、時間が許す限り、縦横無尽に対話をさせていただきました。
また、その中でも、舞踊批評家の竹重伸一さんが話された、「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という土方巽の言葉を巡る、舞踏と死の問題についての深い洞察には、宮台先生が特に興味を示されていたのは印象的でした。

いつもは、一人で思索をしている僕にとっては、これらの豊かな対話は、とても有意義で幸せな時間でした。
そして、気がつくと、あっという間に終わりの時間が近づいており、充実した疲労感が心地よく全身を浸していました。

僕はこの日のことを決して忘れないでしょう。
またの再会を楽しみにしつつ、僕は奈良へ帰り、再び探求の旅を続けます。

宮台先生、参加くださった生徒のみなさん、本当にありがとうございました。

追記
ここまで書いてきて、ふと中国からの留学生がしてくれた一つの質問を思い出しました。

「誠司さんは、人間は何かを超え続けないといけないと思われますか?また、誠司さんにとっての踊りとはそういうものなのでしょうか?」

しばらく考えてから、僕はこう答えました。
「僕にとって踊ることは、何かを超えるというような大それたことではなく、自分自身、あまりに失ったものが多いので、ただ、生きることの信頼を取り戻すために踊っているのだと思います。」

自分で答えながら、「あぁ、やっぱりそうだったのか」とふいに気づかされたのでした。


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