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お坊さんのお話 

母の百ヶ日法要にあたって、長野から車を運転して奈良まで来てくださった、お坊さんのお話です。     


百ヶ日は「卒哭忌(そっこくき)」ともいい、「悲しんで泣くのを卒業する」という意味があります。
もちろん、百日経ったからといって、悲しみは無くなるわけではありません。

そこで、今日はひとつ、みなさんにお話したいことがございます。

みなさん、果たして死ぬことは不幸なことでしょうか?「この坊主はいったい何を言ってるんだ。大切な人を亡くしたんだ、不幸に決まってるだろう」とお叱りを受けるかもしれません。

もちろん、自分の愛する人が亡くなるのです、胸が張り裂けそうなほど悲しむことは当然です。しかし、それは不幸なことなのでしょうか?私はそうは思いません。もし、人が死ぬことが不幸であるならば、この世で幸せになれる人は一人もいないことになってしまいます。なぜならば、すべての人が必ず死ぬからです。

では、全ての人に永遠の命が与えられたら、人間は幸せになれるでしょうか?しかし、みなさんよく考えてみてください。永遠の命、それは今はいいかもしれません。しかし、10年後100年後のことを考えてみてください。地球は人間で溢れかえり、人類は早々に絶滅するでしょう。

では、私だけに永遠の命が与えられたら、幸せになれるでしょうか?

私はそうは思いません。もし、私に永遠の命があれば、きっと私は今日、何もしないでしょう。なぜなら、それは、別に今日やらなくても、明日でも、10年後でも、100年後でも、いつやってもいいからです。そうなると、きっと私はダラダラと寝て過ごすでしょう。そして、やがて生きる気力も目標も無くしてしまうと思うのです。

では、なぜ人間は一生懸命に今日を生きようとするのでしょう。それは、命に限りがあるからです。
命に限りがあり、やがて必ず死が訪れるからこそ、人は今を生きようとするのではないでしょうか。

死があるから生があり、生があるから死がある。

これは、単純に生が幸福であり、死が不幸であるということではないと思うのです。

ある100歳になるおばあさんとお話をした時のことです。私が、「ばあちゃん、100まで生きてすごいね。幸せだね」って言うと、そのおばあさんはこう答えました。「何が幸せなもんかい、夫も友達も子供もみんな死んで、切ないばかりだよ」

ハッとしました。そうか、長く生きることだけが幸せの条件ではないのだなと。
もちろん100まで生きたそのおばあさん、それは本当に素晴らしいことだと思います。
だけど、50までしか生きられなかったから不幸とは、私は思いたくないのです。

それぞれの命にはそれぞれの長さがあります。
そして、去る命があれば来る命もあるのです。

曹洞宗を作った、道元禅師は言いました。
「たった一日でも、本当に生きたという一日があれば、それは100年生きたことと同じ価値がある」

もちろん、わたしのような凡人には、道元禅師のような境地には、とても辿り着くことはできませんが、
美智子さんの百ヶ日法要にあたって、このようなことを少し、お話させていただこうと思ったのです。

最後になりますが、仏様をご供養するとは、どういうことかについてお話いたします。
仏様をご供養する。それは仏様が一番喜ばれることをするということです。
亡くなった美智子さんが一番、喜んでくれることはなにか?
それは、間違いなく、生き残っている人たちが幸せになることです。

だから、どうかみなさん、美智子さんが残してくれたものを大事にして、一日一日を大切に生きて、幸せになってください。それが、一番の仏様へのご供養になるのです。

本日は、どうもありがとうございました。



COMMENT

ほんとに、こういうことにだけ、すごい記憶力を発揮するよね~。
尊敬するわ!!
確かに、新しいものが生まれるチャンスを作るための死と思うと、死というものが、とてもアクティブなものに聞こえるね。
って、解釈あってる?

2012.07.21| URL| 泣いてないもん #- [編集]

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